
ミスタープロ野球・長嶋茂雄氏が逝去されました。日本野球界、いや日本全体に太陽のような明るさとエネルギーをもたらした巨星の旅立ちは、多くの人々に深い悲しみをもたらしています。選手として、監督として、そして文化人として国民栄誉賞や文化勲章にも輝いたその功績は計り知れません。長嶋氏の活躍は、戦後日本の高度経済成長期と重なり、その輝かしい自信と成功は、個人のものに留まらず、復興から成長へと向かう日本の精神を象徴するかのようでした。本稿では、ミスターを語る上で欠かせない、その揺るぎない「自己肯定感」の源泉を、数々のエピソードと言葉から探ってみたいと思います。
「オレは絶対に打てる」:ミスターを支えた言葉と信念
長嶋氏の自己肯定感を象徴する言葉の一つが「ぼくはいつも『オレは絶対に打てる』という気持ちでボックスにたっていますよ」です。この言葉は単なる強がりではなく、彼の精神的な強さと、最も重要な局面で自らの能力を信じ抜く姿勢を示しています。その自信の根底には「努力は人が見ていないところでするものだ。努力を積み重ねてと人に見えるほどの結果がでる」という信念がありました。見えない所での努力が自信を裏打ちし、「自分より練習した人はいない。そう考えると怖くなくなる。すると楽しくなる」という境地に至らしめたのです。これは強い「自分軸」、つまり評価を他者に委ねず、自らの努力と信念に置く生き方を表しています。さらに「いつもずっと思っていることは、現実になっていきます。よいことを常に思っていきましょう」という言葉からは、肯定的な思考で未来を切り開こうとする積極性が伺えます。この揺るぎない自己信頼は、プレッシャーを跳ね除ける盾となり、時には相手を圧倒する力ともなりました。
グラウンド内外で見せた自己肯定感の体現
長嶋氏の自己肯定感は、数々の試練を乗り越える力となりました。「スランプなんて気の迷い。ふだんやるべきことを精一杯やって土台さえしっかりしていればスランプなんてありえない」と語り、不調を精神的な揺らぎと捉え、本質的な能力への信頼を失いませんでした。実際にスランプの際には敵チームの監督に指導を請い、翌日には本塁打を放つなど、その自信と行動力は群を抜いていました。
1996年、ペナントレースで首位と最大11.5ゲーム差をつけられながらも奇跡的な逆転優勝を果たした「メークドラマ」は 9、まさにその象徴です。「皆、あるぞ! あるかもしれないぞ! 皆、頑張るぞ!」とチームを鼓舞し、困難な状況を壮大な物語の一部と捉え直す「メークドラマ思考法」で不可能を可能に変えました。
2004年に脳梗塞で倒れた後もその精神は揺るがず、「これはリハビリじゃない、筋トレなんだ」、「(自分の病気は難しいが)最後は勝つと思っているからね」と語り、9年間でわずか2日しか休まなかったという過酷なリハビリに励みました。野球選手として、監督として、そして病との闘いにおいても、彼の自己肯定感は一貫してその行動を支え、周囲をも変革する力となっていたのです。
長嶋茂雄であり続けること:自己肯定感が生んだ唯一無二の魅力
「長嶋茂雄であり続けることは結構苦労するんですよ」と本人が語ったように、その存在は唯一無二でした。ある記者の子供の名付け親を頼まれた際、自身の名前である「茂雄」を提案したという有名なエピソードは「究極の自己肯定」の表れとして多くのファンに記憶されています。
監督としては、不振の新浦壽夫投手に「ケツの穴からヤニが出るまでタバコを吸ってみろ!」と型破りな言葉で奮起を促したかと思えば、「来た球を打て!」というシンプルな指導で阪神の掛布雅之氏をスランプから救いました。その根底には、立教大学時代の恩師・砂押邦信監督から受けた「個性の重視」「自分の野球スタイルを自分でつくる」という教えがありました。この強固な自己肯定感は、「長嶋茂雄を磨かないとプロ野球は良くならない」という使命感にも繋がり、記録としての「実」だけでなく、ファンを魅了するエンターテイメント性としての「虚」をも含めた「虚実一体」のカリスマ性を生み出しました。その圧倒的な魅力は、内なる自信の紛れもない発露だったのです。
おわりに:ミスターが遺した自己肯定感のメッセージ
長嶋茂雄氏の野球人生は、数々の輝かしい記録だけでなく、ファンの「記憶に残る」プレーと、その太陽のような明るさで彩られています。その根底には常に、揺るぎない自己肯定感がありました。それは、たゆまぬ努力に裏打ちされ、積極的な自己暗示によって培われ、いかなる逆境にも屈しない不屈の精神へと昇華されました。ミスターが遺した「自分を信じる力」「努力の尊さ」「挑戦する勇気」というメッセージは、これからも多くの人々を照らし続けるでしょう。彼の生き様そのものが、私たちに自己肯定感の偉大な力を教えてくれています。